鬼の姿形は頭に角があり虎柄の腰巻きをしていると思われています。また怪力を持ち人に仇なす存在でもあります。諸説ありますが、この姿形や役割が固定化されたのは江戸時代あたりだと言われています。
ではそれ以前はどのような姿形をしており、どのような役割をしていたのでしょうか。
鬼はどこからきたの
そもそも鬼という文字は中国から輸入してきたものです。中国では鬼(グゥイ)を死者の魂や霊を意味するもののようでした。もちろん悪霊や怨霊としての側面も有していました。
古代中国では正しく葬られなかった魂は死ぬと鬼になります。そしてその鬼が家族や生きている人に影響を与えるといわれています。また、生きているときに不当に扱われた者や恨みを抱えて死んだ者の魂は厄鬼となります。厄鬼は災厄を引き起こすと恐れられていました。
そのような鬼たちの存在が後の祖先崇拝や死者の供養の基礎となっていったようです。単なる恐ろしい存在ではなく、死者の魂の安寧や祖先崇拝などの生死感に強く結びついているのかもしれません。
ややこしくさせた鬼
「オニという日本の上代の意義は、すこぶる漢語の「鬼」とは異なっていた」、と『妖怪談義』の中で柳田國男は述べています。
また、「これを対訳として相用いた結果が、いつと無く我々のオニの思想を混乱せしめたことは、かつて白鳥博士なども力説せられたことがあった」とも述べています。
つまり日本の鬼と中国の鬼とでは意味合いが異なるということではないでしょうか。
鬼は見えない?
少なくとも平安時代の鬼は目に見えない超自然的な存在でした。鬼は台風や大火事など様々な厄災や病気を引き起こす邪悪な存在でした。
鬼の語源は「隠(オンまたはオヌ)」からきていると言われています。「隠」とは現実の世界から隔絶した世界、つまり異界や霊的な分野を指す概念です。鬼という言葉がこの「隠」からきているということを意識すると、現実世界の住人ではなく目に見えない世界の住人となるのでしょう。
平安時代の人々にとって鬼が実在するかどうかというよりも、鬼は存在するのは常識として、鬼を目に見えない恐怖や厄災と見做していたことは確かのようです。
源氏物語に出てくる六条御息所
当時の鬼は心の中に潜む悪意や嫉妬そして怒りなどの負の感情が目に見える存在として人々に捉えられることもありました。それらの感情は目に見えないことから、鬼は「隠」の領域の存在として目に見えない存在だったのかもしれません。
感情が鬼となった有名な例としては最古の小説といわれている源氏物語に出てくる六条御息所の生霊の話が有名です。彼女の持つ強い嫉妬心が鬼のような存在として葵の上にとり憑き、ついには呪い殺してしまうことは現代日本にも語り継がれています。
平安時代の鬼とは基本的には目に見えない厄災や負の感情によって起こされた超常の出来事を指していたのかもしれません。
菅原道真公
菅原道真(845-903)は学問の分野で頭角を表し、朝廷に使えました。最終的な役職としては右大臣にまで昇進しました。
ただし、菅原道真の政治的活動は敵をうみやすく、特に藤原氏との対立が道真の最後を大きく動かしました。
菅原道真は権力のトップに居ながらにして、無実の罪により太宰府(福岡県)まで左遷させられました。この左遷は道真の心に大きな傷を作り、孤独と失意のうち903年に亡くなりました。彼の死後、その不運に同情する声が高まりました。
ところが、菅原道真の死後、政敵であった藤原時平をはじめとする道真の左遷に関与した人物が相次いで不審な死を遂げました。それだけではなく、天変地異や自然災害も頻発しました。中でも天皇の居所であった清涼殿落雷事件は当時の人々に強烈な印象を与えたと思います。
これらの出来事は道真の怨霊が原因とされ、朝廷は彼を鎮めるために菅原道真を神として祀ることを決定しました。学問の神である天神様です。
不当な扱いを受け、恨みを抱いて亡くなった菅原道真は日本の三大怨霊として畏れられています。この天変地異や自然災害を起こした菅原道真の霊はまさに見えない鬼としての側面を持っているのではないでしょうか。
鬼は見える?
しかしながら鬼も完全に姿を見せないわけでもなく、目撃例もあったようです。例えば平安時代後期に編纂された『今昔物語集』には「板鬼」という存在があります。その他には大江山に住んでいたといわれる「酒呑童子」やその子分の「茨木童子」なども目にみえる形での鬼でした。
板鬼
平安時代の侍には「宿直」の役がありました。宿直の主な役割には宮中や貴族の屋敷の警護や護衛があります。これは夜間の見回りをすることで、不審者、火災そして盗難などの危険から貴族や財産を守る意味合いがありました。夜通しの警戒であるため怪異と出会うことも多かったのではないでしょうか。
その侍が板鬼に出会ったときの様子このように述べています。
今昔、或る人の許に、夏比若き侍の兵立たる二人、南面の放出(はなちいで)の間に居て、宿直(とのゐ)しけるに、此の二人、本より心ばせ有、□也ける田舎人にて、大刀など持て、寝で物語などして有けるに、亦、其の家に所得たりける長侍の、諸司の允五位などにて有けるにや、上宿直にて出居(いでゐ)に独り寝たりけるが、然様の□なる方も無かりければ、大刀・刀をも具せざりけるに、此の放出の間に居たる二人の侍、夜打ち深更(ふく)る程に見ければ、東の台の棟の上に、俄に板の指出たりければ、「彼(あ)れは何ぞ。彼(あしこ)に只今板の指出づべき様こそ無けれ。若し、人などの『火付けむ』と思て、『屋の上に登らむ』と為るにや。然らば、下よりこそ板を立て登るべきに、此れは上より板の指出たるは心得ぬ事かな」と、二人して忍やかに云ふ程に、此の板、漸く只指出に指出て、七八尺許指出ぬ。
「奇異(あさまし)」と見る程に、此の板、俄にひらひらと飛て、此の二人の侍の居たる方様に来る。然れば、「此れは鬼也けり」と思て、二人の侍、大刀を抜て、「近く来ば切らむ」と思て、各突跪て、大刀を取直して居たりければ、其(そこ)へは否(え)来ずして、傍なる格子1)(かうし)の迫(はざま)の塵許有けるより、此の板、こそこそとして入ぬ。
此く入りぬと見る程に、其の内は出居の方なれば、彼の寝たりつる五位侍、物に圧(おそ)はれたる人の様に、二三度許うめきて、亦、音も為ざりければ、此の侍共、驚き騒て、走り廻て人を起して、「然々の事なむ有つる」と告ければ、其の時、人々起て、火を燃(とも)して、寄て 見ければ、其の五位侍をこそ真平に□殺して置たりけり。板、外へ出とも見えず。亦、内にも見えざりけり。人々、皆此れを見て、恐ぢ怖るる事限無し。五位をば即ち掻出にけり。
此れを思ふに、此の二人の侍は、大刀を持て切らむとしければ、否寄らで、内に入て、刀も持たず寝入たる五位を□殺してけるにこそは有らめ。其れより後にや、其の家に此る鬼有けりとは知けむ。亦、本より然る所にて有けるにや、委く知らず。
然れば、男と成なむ者は、尚大刀・刀は身に具すべき物也。此れに依て、其の時の人、皆此の事を聞て、大刀・刀を具しけりとなむ語り伝へたるとや。
今昔物語集 巻27第18話 鬼現板来人家殺人語 第十八
要約
二人の宿直の侍が徹夜で物語をしていた。二人には武道の心得があったため刀を所持していた。その二人とは別にもう一人の役人が寝ていた。彼は武道の心得がなかったため、刀を持っていなかった。
夜が明くる頃、二人の侍は東の棟の方に板が突き出ているのを見た。人が火をつけに屋根に登ったのかもしれないと思っていると、およそ2mばかり伸びてきた。
やがてひらひらと飛んできた。「これは鬼に違いない」と二人は思い太刀を抜き「近寄るのならば斬る」と構えた。
ところが板は近くの格子の隙間から家の中に入って行ってしまった。その部屋は役人の部屋であった。二、三度の呻き声がすると音がなくなった。駆けつけてみると役人は真っ平に潰されて死んでいたという。驚いて例の板を探して回ったが、出て行った気配もないのに、どこにもなかったらしい。
二人の侍は「近寄るのならば斬る」と構えていたため板鬼は他に標的を定め、刀を持っていなかった役人を殺したのだろう。それ以来男というものはどんな時でも太刀を持つことだけは忘れてはならない。と、この時代の人々は戒めとしていたようです。
角の生えた鬼
このように平安時代には目に見えない災害や疫病としての鬼が存在していました。また強盗やならず者集団としての目に見える鬼も存在していました。
では令和の人間に鬼について聞いてみるとどうでしょう。それは決まって目に見える鬼の方を答えます。新型コロナウィルスが蔓延した時、誰も「これは鬼のせいだ」など言う人はいませんでした。様々な技術の発展が見えない鬼を見える鬼に変えていったのでしょう。
さて、鬼の形ですが、多くの日本人に「鬼はどのような姿形か」と聞くと決まって次のように応えると思います。
- 角がある
- 髪はもじゃもじゃ
- 肌は赤色か青色
- 虎柄の腰巻きを履いている
- 金棒を持っている
これが現代における鬼の姿形です。怪力と丈夫さという点では酒呑童子や茨木童子に近いものがあるかもしれません。
義務教育でそのように教えられたわけでもないのにどうしてこのような共通認識があるのでしょうか。それは江戸時代にまで遡ります。
江戸時代に確立した鬼
角と虎皮というイメージは鬼門に関係しています。鬼門とは北東を指す方角で邪気の訪れる方角として知られています。中国の陰陽五行説から輸入してきた考え方です。
日本文化における方角は中国陰陽五行説の十二支からきています。丑(うし)は北北東、寅(とら)は東北東、つまり北東は丑寅(うしとら)と表します。そして丑寅の方角は「陰」の気が最も強いとされ、悪霊や災いが入りやすい方角とされています。
北東の方角が丑寅と呼ばれることがわかりました。ここに角と虎皮の印象が決定付けられます。丑は牛を指し、牛には角があります。また寅は虎であり虎の毛皮があります。また鬼門は鬼を連想させます。これらのことから鬼には角と虎皮の腰巻きが定着していったのではないでしょうか。
まとめ
話が色々と広がってしまいましたが、鬼はもともと中国から輸入してきた漢字と御霊信仰が融合した概念だったようです。それ故に目に見えない存在でした。しかし、怪異現象や疫病など目に見える形の厄災が出てくると次第に鬼は目に見える存在になります。
酒呑童子といった大悪行を行った鬼の総大将も出てきました。またその鬼を討伐した伝説もあり、目に見えるものとなりました。一方で酒呑童子の首は「首から上」の病気や怪我を治すための信仰の対象ともなっていきました。
そして牛頭天王を代表とする鬼神という概念が強く日本文化に根付きました。鬼神は恐ろしい神であるため、畏怖の念でもって神社に祀ることになります。そして怒りを鎮める祭りが、日本で最も有名なお祭りの一つの祇園祭になっていきました。
人間の心でさえ鬼になりうるものです。目に見える鬼は恐ろしいものだと思いますが、今現在も自分の中にある悪意という目に見えない鬼も恐ろしいものだと思います。
コメント